宮沢賢治と光原社
光原社初代当主、及川四郎は盛岡高等農林(現岩手大学農学部)を卒業しております。そのときのひとつ上の学年に賢治がいたということで同窓生でありました。
卒業後、四郎は事業をおこし、高等農林時代の友人、近森善一氏と協同で、盛岡にて「東北農業薬剤研究所」という名で農薬の製造や、農業テキストの出版をはじめました。これらの出版物は高等農林時代の縁故をたどって通信販売の方法を取り、また、県内などは直接売り込みに歩きました。盛岡高等農林の同窓生は全国の農学校の半分くらいの学校にいて、これらのテキスト類は結構売れたということです。
当時、賢治は花巻で県立農学校の教諭をしており、近森氏がテキストの売り込みに賢治の元を訪ね、そこで童話の原稿見せられたのが、賢治の生前唯一の童話集「注文の多い料理店」出版のきっかけとなりました。大正13年、1924年のことです。
近森氏が童話の原稿をもって盛岡に帰ってきて、四郎に「どうしようか」と相談を持ちかけます。四郎は即座に「出そうじゃないか」「うん、出そう出そう」と出版することを決めてしまいました。。原稿もきちんと見ないで、手がけたことのない文芸書を出版しようというのですから、なんとも無分別な話です。なにかこの大正という時代の若者の野心、そして賢治に対する信頼の大きさを感じます。
出版を決めたものの特に資金の当てがあるわけでもなく、農業テキストの売り上げだけが頼みの綱といった状態でした。当時としてはかなり斬新な装幀にしようと意気込んでいましたので、印刷も技術的にいろいろむつかしいこともあり、東京でやってもらうこととしました。しかし前納する約束の印刷費の支払いにはたいへん苦心したようです。テキストの売り上げをその都度こまめに東京の印刷所に送金したそうですが、その回数は60回を越えました。また、当初の1000円で出来るという予定より300円ほど多くかかってしまい、その300円の支払いには質屋通いをするほど苦しんだということです。(当時の300円といえば家一軒立つくらいの大金です)
ようやく、苦心惨憺をして、できあがった「注文の多い料理店」でありますが、この本の奥付の発行所の処に「東京光原社」の名前があります。この「光原社」は、社名としてなにか良いものをと賢治に頼んだところ、2、3日して、五つばかりの店名を持ってきて、そのうちから四郎が「光原社」を選びました。迷わずそれに決定したということです。
さて、そのようにして出来た本を四方八方手を尽くして書店や学校に働きかけ、懸命に売り込みをはかりましたが、「注文の多い料理店」はまことに「注文の少ない童話集」でありました。四郎は全く窮地にたってしまい、見かねた賢治が、本を二百冊買い上げてくれたのでなんとか不義理をせずに済んだという状況でした。
経済的には全くの失敗に終わりましたが、現在においても名作として名高いこの「注文の多い料理店」を若き日にほとんど独力で出版したということは、四郎にとってかけがいのないものとなったようです。晩年には、当時のことをほんとうに懐かしそうに語っていたということです。
その後、昭和15年には紙の統制で出版が制限されたので、太平洋戦争前には出版をやめ、そのころから出版と併行しておこなっていた、南部鉄器と漆器の生産をするようになっていきました。昭和9.10年、四郎は南部鉄器に興味を持ちはじめた頃、柳宗悦氏の著作を読み、東京駒場に柳氏を訪ねました。そこで「民芸」とはどういうものかということを伺ってきたそうです。そのようなところに端を発し、南部鉄器、漆器の生産から全国の、さらに海外の工芸品も扱うようになり、現在の形態にいたっております。